鈴木 達央さんインタビュー
2006年11月1日アニメイトタイムズ掲載インタビュー
PROFILE
鈴木 達央 11月11日生まれ。アイムエンタープライズ所属。
最初は建築士になりたかった
「こんな仕事をしたいな」と最初に考えたのはいつ頃ですか?
将来の夢を考え始めたのは小学校4~5年生の頃かな。一級建築士になりたくて。家のデザインとか設計とかしたいなと思ったのが最初です。ピサの斜塔やサグラダファミリア、日本では金閣寺と銀閣寺などの歴史的な建造物やおもしろい建設物に興味があったんです。
そして中学生になって声優という職業を知りました。それまではアニメを見れば実際にそんなキャラがいると思っていたし、海外ドラマの俳優は2カ国語話せてすごいなと思っていました。でもどうやらそうではないらしいと知って気になって調べてみると声優が演じていることを知って。声優という仕事は自分にとってはとてもセンセーションでした。両親が好きで見ていた海外ドラマや洋画を僕も一緒に見ていたので、自分が送り手として関われたらと考え始めたのが中学2年生の頃ですね。
好きだった海外作品は?
『特攻野郎Aチーム』が好きでDVDは全巻持っていて今でも見ますね。もしリメイクされる機会があるならどんな手を使ってでも出たいと思うほどで(笑)。洋画は『トップガン』や『アンタッチャブル』などの80年代のものが好きでした。あとはアーノルド・シュワルツェネッガーの映画はほとんど見ました。筋骨隆々の男性が悪人をなぎ倒していくのが爽快で楽しかったんです。アクションものは日常では触れることはできない世界なのでワクワクしながら見ていましたね。
決め手は週1回のレッスンと実績
声優という仕事を知ったきっかけは?
同じ時期に新聞や雑誌で声優の仕事を紹介している記事を読んだんです。それで気になってアニメ雑誌を調べてみました。調べていくとどんどんなりたい気持ちが強くなって、もう声優になるんだと決めてました。かたっぱしから養成所の資料請求をして、両親に反対されて、親子げんかしながらも何とか了解してもらって、次は養成所探しです。親からは「愛知の実家から出ないこと」というのが唯一の条件で、それでかなり養成所の候補が絞られました。その中で日本ナレーション演技研究所は出身者の方々はそうそうたる皆さんで、しかも週1回のみのレッスンだったので、それなら親も安心してもらえるかなと。
入った時に感じたことは?
芝居をやったことがなかったので「大丈夫かな」と考えたりもしましたが、「自分はなるしかないんだ」という気持ちのほうが強かったので、とにかくがむしゃらに前を向いて頑張るだけでした。いろいろな世代の方がいて、もう結婚されている方もいたし、ひとつのコミュニティの中でたくさんの人と触れ合って、話せたことはすごく刺激的でした。
印象的なレッスンはありますか?
最初に自己紹介をしたんですが、僕はみんなの前で自己紹介するのが苦手で苦労しました。あと“感情開放”というレッスンでは「怒る」・「泣く」・「笑う」の中から一つ選んで、セリフなしでOKが出るまで表現し続けるんですけど、ここでも苦心しました。僕は「怒る」を選んだんですが、実際にやってみて「人間って簡単に怒ることはできないんだな」とビックリしました。最初のうち、なかなかうまくできなくて、レッスンが終わった後、いろいろ考えたり、練習してみたりして。でもある日、「ダメ」と言われ続けていた講師の方から「ちょっとよくなったね」と言ってもらえた時はすごくうれしかったですね。声優を目指して、初めて誉められたので。
距離を縮めたり、伸ばしたり、お互いに距離をとって芝居の距離感を覚えるレッスンもおもしろかったですね。遠くなればなるほど、セリフを伝えることが苦しくなって。それから、東京からいらっしゃった講師の方に現場に出た時のお話を聴いた時や、たまに講師の方が他のお仕事が入ってレッスンに来ることが出来ない時、代わりの方が来てくださって、お芝居の起源についてお話ししていただいた時も楽しかったです。
名古屋でもできるところを見せたかった
レッスンを続けるのは大変ではなかったですか?
努力とか勉強というふうには考えたくはなかったんです。自分が声優になるためにやらなければいけないことをやっているだけだから。自分はヘタで、うまくできないのが悔しくて、うまくなりたいという一心でやっていたことでしたから。
でもレッスンに行くのが毎回、楽しかったですね。それまでお芝居を学んだことがなくて、ゼロからのスタートだったから、行く毎に新しいことが自分の中に吸収されていく実感があるのがおもしろくて。レッスンを真剣に受けてるんだけど、自分の心の中での受け取り方が、遊びの中で新しいことを覚えたみたいな、不思議な感覚がありました。
いつもまっさらな気持ちでレッスンを受けられたことがよかったのかもしれません。
結局、何年通ったんですか?
名古屋校に3年、事務所に所属してから東京校に1年通いました。
事務所に所属されてからも学べる場があったのは良かったですね。
事務所の方針だったんですけど、良かったと思います。現場には出ていましたが、未熟な部分があって、できないと感じたことや疑問を講師の方にぶつけてみて、そこで得たものを現場で返すみたいなところもありました。在学中は自分の中で得たものをまとめる作業はしていました。
基礎的なことを学んだのはどれくらいですか?
基礎科の1年と本科に入ってからの半年ですね。
東京校ではなく、名古屋校にいることで焦りを感じたりはしませんでしたか?
確かに東京校のほうが事務所も近くて、たまにお仕事をもらえたりするというお話も聞きました。でも焦ることはなかったですね。自分が学校に通っているのは事務所に入ってプロに成るのが目標だったから、そういうことは気にならなかったです。今は遠いかもしれないけど、結果さえ出せば上にあがれるはずという信念があったので。
「名古屋でもできる」というのを見せたいという気持ちもありました。
東京にいないことで逆にハングリーさに火がついて、より強い気持ちで取り組めそうな気がしますね。
僕もすごくハングリーでしたね。今、当時の講師の方とお会いすると「あの時のお前、すごくムカついたもん」と言われますから(笑)。それだけ前のめりになって、講師の方にぶつかって行ってたので。でも、「そのくらいのハングリーさがないとダメなのかもね」ともおっしゃっていました。
週1回のレッスンということで、集中できることもプラスに働いたのでしょうか?
残りの6日間は人に隠れてすごく練習しましたね。最初に早口言葉のプリントをもらったんですけど、なかなかうまく言えなくて。同じクラスの中には演技経験者の人がいて、すらすら読んでいるのを見ると腹が立って、悔しい気持ちになって。帰るとすぐに練習しました。できるまで風呂から出ないと決めて、結局、何時間も風呂から出られなくて、親から「早く出なさい」と催促されたり(笑)。また、1週間後の次のレッスンでは講師の方をビックリ驚かせられたらおもしろいかなという、いたずら心みたいなものもあって。1週間に1回、中ボスが出てきて、そこまでに僕は経験値を上げて、その中ボスを楽々倒したい。そこで倒せても新しい課題という敵が現れるという繰り返しで、自分自身がRPGの主人公になっているような感覚すらあったような気がします(笑)。
事務所が決まった時も先を見ていた
希望が叶って、事務所に所属が決まった時の感想は?
バイトの休憩中に日ナレの事務局の方から電話をいただいて、「達、受かったぞ。おめでとう」と言われて、僕は「はぁ~そうですか。わかりました。は~い」と電話を切ったのを覚えてます(笑)。それでバイト先の人に伝えたら、みんな「すごいじゃん!」と言ってくれたんですけど、「そうですね」とすごく薄いリアクションで。親に伝えた時は「ふ~ん……え~!」と時間差ですごくびっくりされました(笑)。
僕自身は時間が経ってから少しずつ喜びをかみしめましたが、聞いた瞬間はむしろ「次、どうしようか」ということしか考えてなかったんです。スタートラインには立てたけど、今度は仕事をとるためにどうしなきゃいけないのかとか、先のことばかり考えていて、事務所の方にも「お前、がっつき過ぎ」と注意されることもありました(笑)。あまりにやりたい気持ちが強すぎてカラ回りしちゃったのかなと思います。でもそんな時に先輩や周りの人が叱ってくれたおかげで、自分の足元を見つめ直すことができました。
ベースであり、思い出深いデビュー作
デビュー作についてのお話を聞かせてください。
最初はラジオドラマで、ラジオでは流れたけど、製品化されないものでした。その半年後に『DEAR BOYS』というバスケット漫画をアニメ化した作品で、僕はチームに所属するレギュラー5人の一人、石井という役でした。感情表現が豊かで、元気いっぱいな高校生なんですけど、一番しゃべるキャラと聞いた時はぞっとしました。画面を見ながらのアフレコが初めてだったので、毎週 音響監督に怒られて、しぼられて…。今でも一緒にお仕事させていただきますが、「あの頃よりましになったよな」とよく言われます(笑)。
あと、バスケットのアニメなので、酸欠になりかけたり、貧血を起こしそうになったり。叫ぶシーンが多いからセリフを言い終わった後、マイクからはずれる時にキラキラしたものが見えてきて、「やばい。これは倒れる時の症状だ」って(笑)。
朝10時に現場に入って、収録が終わって帰るとベッドに倒れて、いつも体が動かなくなるくらいヘトヘトで。気がつくと朝になっていることもありました。
今でも『DEAR BOYS』を収録していたスタジオに行くと、何かのスイッチが入るみたいで緊張してしまいます(笑)。
とにかくその時の僕にはそれしかなくて、命を削っても声を入れようという気迫があったと思います。実際、収録が終わる頃にはのども枯れていて。とにかく全力投球してました。時々、DVDを見ると初心に帰らなきゃいけないと思うこともあります。いろいろな方にご迷惑をおかけしましたが、あの作品に出会えたから今の自分があるのかなと思える、自分にとってベースであり、思い出深い作品ですね。
早く訪れたデビュー、そしてファーストアルバム「Turn of my life」のリリースへ
鈴木さんはアーティスト活動もされています。音楽活動のお話をいただいた時はどうでしたか?
声優さんの中でアーティスト活動をされている方はいっぱいいらっしゃったので、「いつかは自分もやってみたい」という気持ちもありましたが、まさかこんなに早く実現するとは思ってもみませんでした。お話をいただいた時、「まだ自分には早いんじゃないか」とお断りしようかとも考えたことがありました。でも回りの方に相談すると「いつかやりたいと思っているんならやったほうがいいよ」と言ってくれて。
デビュー曲「Just a Survivor」がいきなりTVアニメーション『好きなものは好きだからしょうがない』の主題歌。気負いはありませんでしたか?
作品の主題歌になると聞いた時は「いきなり主題歌ですか!?」と驚きました。作品の主題歌になることは確かに大きいし、責任も感じましたが、結局歌うことには変わりないんで、自分のできることをしようと歌に一生懸命取り組むだけでした。実際、本格的に歌の勉強をしていたわけでもなく、我流だったんですけど抜擢してくださったプロデューサーには感謝しています。
そして、最近リリースされたファーストアルバム「Turn of my life」。タイトルの由来は何かありますか?
“人生の転機”という意味です。自分のイニシャル“T”で始まる言葉にしたいと思って、いろいろ調べてもなかなか決まらなかったんですけど、パソコンで作業をしていたら“Turn of my life”という言葉が降りてきて。「変わらなければいけない」とか「進まなくてはいけない」という想いからこのタイトルが降ってきたのかもしれません。
今回のアルバムではいろいろな種類のサウンドが聞けるものになっていますね。鈴木さんの音楽的な嗜好が出ているアルバムなのでしょうか?
アルバムだからこそ振り幅が広いものを作りたいという気持ちがあって、今回は僕が最近、気に入って聴いているブラックミュージック系のR&Bやヒップホップなどの曲を入れてもらいましたが、いろいろなジャンルの曲が入っていて聴きやすく、バランスのいいアルバムになったと思います。聴いてくださった皆さんからも感想などをいただきましたが、反応が良かったのでうれしかったです。これからも機会があれば続けていきたいし、そしていつかライブができたらいいですね。